アートマンについて
atmanという語を辞書で引くと、様々な意味がある中で、最初にthe breathと書かれています。気息、呼吸・・・というと、むしろプラーナを思い浮かべてしまうので、少し意外な気がしました。
この素朴な疑問を解決する、アートマンという語の成り立ち、意味の変遷に関する非常にわかりやすい説明を見つけました。
次にブラフマンと並んで発達し、ついにこれと同一視されたアートマンすなわち我とは、元来「気息」を意味し、生命の主体と目されては「生気」となり、総括的には生活体すなわち「身体」特に「胴体」となり、他人と区別しては「自身」となり、さらに内面的・本質的に解されて「本体・精髄・霊魂・自我」を意味するに至った。これよりアートマンが当初から、プラーナ(「気息・生気」)およびプルシャ(「人・人我・本体」)と密接に関聯・接触したことは明瞭である。生命の主力として気息は古くからアス(Asu)またはプラーナの名によって尊重され、特に後者はアタルヴァ・ヴェーダ依頼哲学的意義を賦与されて来たが、単なる生活機能よりさらに本質的な霊体を示すためには、次第に原義より遠ざかったアートマンに一籌を輸ざるを得なかった。アートマンはアタルヴァ・ヴェーダにおいてすでに個人の本体として賛美され、あるブラーフマナは十種のプラーナ(生活機能)の上にアートマンをおいている。
関聯=関連、一籌=いっちゅう
出典「ウパニシャッド」辻 直四郎著 講談社学術文庫 p55 1990年
※初出は1942年
なるほど。
ヴェーダの翻訳を始めるまでは、アートマンというと、ほとんど「自己、自我、霊魂」という程度の認識しかありませんでしたが、アートマンだけに限らず、長い時のなかでヴェーダの言葉が発達・発展していったのだと理解できました。
自我(自己)としてのアートマンの訳例です。
yasmin-sarvani bhutany-atmaivabhud-vijanatah |
tatra ko mohah kah soka ekatvam-anupasyatah || 7 ||実に、一切衆生をただ自己(アートマン)のうちに見出し、かつ一切衆生のうちに自己を見出す者は、ゆえに何ものをも嫌悪することがない。一切衆生は自己そのものであったと知る賢者にとって、そこにいかなる迷妄、いかなる憂いがあり得ようか、万物の一体性を観ずる者にとって。
「イーシャーヴァースィヨーパニシャット」第7節 拙訳
身体、胴体としてのアートマンの訳例です。
tasedam-eva sirah | ayam daksnah paksah | ayam-uttarah paksah |
ayam-atma | idam puccham pratistha |これはまさに彼の頭である。これは右腕、これは左腕、これは胴体(アートマン)、これは下肢、支えである。
「ブラフマナンダヴァリー」第1章 拙訳